【当たり前と事実】練習での氣憶#237~時代が進んだとしても変えてはいけない当たり前が必ずある~
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昨日は、支部練習。移動に時間の掛かる支部なのでお勉強と情報収集の時間。この時間が良き時間となります。時間=命。無駄な時間はありませんからね。
さて練習は、基本・型に始まり流動基本→ミット→組手でいつもの様に進んでいきます。その日によってミットが多い日もあれば組手が多い日もある。それはあって当然の流れで全く同じいつも同じでは練習はつまらなくなる。なので基本や型も同じ動作なのでたまには同じでも工夫は必要になる。
つまらないから基本や型をやらないのはただの怠慢でしかない。工夫を考えられないからである。良く他の空手の道場でみられる基本・型をやらない問題はこう言った所もあるのではないだろうか?結果やらなくなり基本や型が無い空手の誕生となるのではないだろうか?
または試合至上主義になり、基本や型は試合に結びつかない!の判断から除外するのもあるだろう。私からしたら有り得ない事なのである。基本や型をやっている者の足腰とやらない者の足腰。やっている者の身体の使い方とやっていない者の使い方は全く違うのである。様々な要因はあるにしても空手には型がありそこから生まれる基本がある。
最近型をやり始めたであろう道場では、型と基本のミスマッチが起こっている。流派が元々ない所に型を入れるからであろうが、基本がそもそも違うのに伝統的な流派の型をやってもミスマッチしているので身体は有効的に使えない。なので型が身体に有効的に働く事は確率的にかなり低くなる。
それでも型をやろうとしている事は素晴らしい事だけれど合わせた方が良いのは事実である。
それを知らずに道場に入るのがほとんど。空手に流派がある事も知らない人がほとんど。皆同じだと思っている。しかも競技によってルールが違うのも空手を始めてから知るのがほとんどである。この辺りも本来もっと発信するべきだなとは思います。
そして練習をする時に整列して行う。これも当然な事だけれどこれも当たり前でも当然でもない空手道場がある。これも実際知らない人からしてみたら、やらない所に入ったのならそれが最初ならそんなもんなのね~ってなる。しかし、本来は整列して挨拶をするし、練習の終了時も整列し大概は道場訓を皆で唱和して挨拶をして終了する。
そんな道場訓を唱和する時も通常なら皆が静かになる。当然だが挨拶も道場訓も神聖なものといて捉えるので静かになるのが当然だと思います。
しかし、その当然も今までの生きてきた環境で神聖な場を認知する事をしてこなければ、神聖なものだと理解出来ないので静かにならない。
当たり前だけれど誰かが話しているのなら話している人の話を聞くのが当然である。道場訓も誰かが言っているのだから聞くのが当然だし、その場に合わせるのが当然の行いだと私は思う。
しかし、当たり前だと思う事も人によっては当たり前に思えないのもある。ただ日本人であるなら「空気を読む」事はある程度は出来るはずである。全てにおいて合わせろと言うっている訳ではなく、やらなければならない事位は理解してやるべきかなと思います。
それは基本でも型でも神聖なものに対しても全て同じだと思います。
そんな事も分からなくなっているのが現代の日本人であるというのが事実なんだと改めて思います。
それではまた~
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