【身体を鍛える】何故身体を鍛えて行くのか?~20230304~
最近は過去大会の問題点や出場させて頂いている大会の良き所や問題点を考えながら次に向けての準備に勤む吉田です。
本当にやらなきゃあかん事が多いですが楽しんでやりたい事やっているので苦ではないのでストレスフリーです(笑)以前の生活ではなかった環境に感謝です。
さて今日は空手で良くある鍛錬の部分について書いてみたいと思います。
私なりの考えであるので気楽に読んで頂けたらと思います。
空手と言ったら瓦割り?板割り?って言われる時代がまあ長くありました。昔は「空手やってます」と言うと「あっ!瓦割るやつでしょ!」なんてよく言われましたね。今でもたまにありますね(^^;
では、何故そうなってしまったのか?
多分パフォーマンスを見せる為でもあるし宣伝効果があるからそれらを沢山やっていたからでしょうか。。それはその時代の事なので仕方のない事です。そのイメージがかなり定着してしまいましたね。
鍛えたらこれだけ出来るんだって所を見せるのはパフォーマンスとしては良いのかも知れません。しかし強さとはイコールではないのです。しかし、身体を鍛える・拳を鍛えるなどの部分鍛錬を空手では行います。
では、なぜ拳を鍛えるのか?体を鍛えるのか?と言う所を書きたいと思います。
もちろん、身体を鍛える事で単純に丈夫になる事は当然の事です。筋肉の付いた身体は鍛え方次第では鎧にもなります。私も某フルコンタクトの大会に出た時はビルドアップさせました。また例えば、筋肉の硬さが固ければ突いたり蹴ったり攻撃した方が痛くダメージを負う事にもなります。
そして、空手では良くある部分鍛錬。
拳や足など体のを部分を徹底して鍛え抜く事を行います。拳で巻藁を突いたり蹴ったり、鍛錬が進んでいくと砂袋や材木・石や鉄など様々な固いものを叩き鍛えて行きます。強い拳や足を作れば単純にそれで身体を叩かれたら痛いですよね。逆に豆腐で身体を叩かれても痛くないですよね。
と言った様に、単純に身体を鍛える意味はあります。
ただそれだけではないと思います。
「武」として考えたなら・・・
拳(対象)にいかに意識を集中できるか?ではないでしょうか?
これは今となれば理解できるのですが鍛えている頃は理解できませんでした(笑)ただ強くする・我慢するでやっているだけでした。
意識を集中させる事が様々な力を生んでいきます。当時それを理解していたらもっと違う結果が生まれていたと思います。
「武」での質は硬さや大きさではなく、「意識の質と量」そして「時間の積み重ね」その時間が長ければそれ相応の結果が生まれます。中国では練功・日本では鍛錬と言ったりしますが、そういった先に試割りがあるのかなと思います。
ただ上にも書いたように意識の質と量が「試割をする為に」では全く向いている方向が違うので「武」としての本質からは外れてしまうと思います。
あくまでもこれは私の考えです。
私も昔は「板や瓦・ブロック」などを試割して行きました。ただそれが今となっては違った意味合いと捉えているのでほとんどやりません。その意識の質と量を違った方法で鍛錬して行く様にしています。
ただ拳が弱いのもいかがなものか?ですので、毎日拳立て伏せはやってます。
部分鍛錬と言うよりは、意識の鍛錬を行う方がより「武」としての本質は上がって行くのだと思います。
現代は精神的な部分であった所が科学的に証明されているので、合っているか?間違っているのか?と言うギリギリの所を攻めるのではなく、確実に上がっていく所を選んだ方が良いですからね。勿論そんな中に怪我をしてしまっては元も子もないないです。
必要である部分を如何に鍛えて行くか?考え直さなきゃならない時なのかも知れません。
それではまた~
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